結果論は無意味な論理

 結果論とは何だろうか。なんとなくわかるようでわからない言葉ではないだろうか。
 広辞苑には「原因や経過を無視して、ただ結果だけを見てする議論」とあるが、これではよくわからない。

 結果論とは「結果を元に、その前の段階の結論を論じること」だ。

例)今朝、天気予報で雨だといってたから傘を持ってきたが、雨は降らなかった。なら傘を持ってくる必要はなかった。

 この論理はおかしい。朝の段階では雨が降らないことは知りようがないのだから、朝の段階で「傘を持たなくていい」という結論に至ることはできない。

 〔前提〕雨が降りそう→〔結論〕傘を持っていく→〔結果〕雨は降らなかった

 こういう時間の流れがあり、結果が出た後に結論に遡ることはできない。だから「傘を持ってくる必要はなかった」と言ったところで無意味だ。結果論は無意味な論理だ。

常に自分を正しく見せる

 結果論を使うと、どんな結果が出ようが自分の意見を正しく見せられる。

例)コロナ禍で東京オリンピックを開催した。
 →結果A:陽性者がかなり増えた。
 →結果B:陽性者は特に増えなかった。

 結果Aのときには「だからオリンピック開催に反対だったんだ」。
 結果Bのときには「だからオリンピック開催に賛成だったんだ」。
 こう言えば、結果がどちらであれ自分を正しく見せられる。

 これは後出しジャンケンで、卑怯で無意味な意見だ。
 オリンピックを開催すべきかどうか、それが知りたいのは開催を判断する前なのだから、そのときに意見しなければ意味がない。
 結果論は、事前の問題解決の役に立たない。

意見が当たったからといって自慢する

 上記の東京オリンピックの例で、陽性者は特に増えなかったとする。そのとき、開催前から開催に賛成していた者が「ほら見ろ、だから開催しても問題ないと言ったじゃないか」と言ったとしても、それもまた結果論だ。

 開催して陽性者が増えるかどうかは複雑な問題であり、高精度の予測できない。開催に賛成していた人だって、絶対に陽性者が増えないという確信はなかった筈だ。陽性者が増えなかったのは、たまたまそうであったに過ぎない。

 だから「感染者が増えなかった」という結果が出てから「ほらみろ」と言っても、それはたまたま当たったことであり、自慢できることではない。

批判に使われる

 結果論は批判に使われることがある。

例)溺れている子供を助けようと男性が川へ飛び込んだ。しかし2人とも命を落としてしまった。
 これに対する批判「他に助ける方法があったはずだ。この男性の行動は間違いだった」

 この批判は、結果的に2人とも亡くなったという結果を受けて論じている。もし2人とも助かっていたら、この批判はできない。
 結果を受けてから意見を決めれば、意見が間違うリスクを負わずに相手を批判できる。

 このように、結果だけを見て都合よく批判する例は社会の中に無数にある。結果を見れば誰だって簡単に人を評価できるからだ。難しいのは、結果が出る前に人を評価することだ。